ヤマナカタンブラー

Sep 02
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k-nakama:

詩人、立原道造は、

建築家でもありました



高校(旧制)時代から、

堀辰雄らとの交流を始め、

詩を発表していた彼は、

大学の進学にあたり、

なぜか、

現在の東大建築学科へと、

進学します



在学中の彼は、

その詩を思わせるような、

詩的で、風土的な作品で、

その年の優秀な設計製図に与えられる奨励賞を、

3年連続で受賞するなどして、

当時から交流のあった、

一級下の、丹下健三にも、

とても大きな影響を与えた、

といわれています



大学を卒業した立原道造は、

当時の一流の建築設計事務所へ、

就職することになります



しかし、

就職後半年で、

早くも長期の病気欠勤をし、

結局、

わずか24歳で、

この世を去ってしまいました



実際の建築作品をのこすことなく



設計事務所に勤務していた時期は、

病気に悩まされていただけではなく、

芸術のみを追求することが許されない、現実の仕事の中で、

多くの葛藤も感じていたようです



そうした、

自ら「ガラスの檻」と呼んでいたという、空疎な業務から、

逃避するためだったのか、

彼は、

自分の隠れ家のような、

小さな小屋をつくることを空想していたといいます

そして、それを、

あたかも、すでに出来上がったものであるかのように、

友人に語ったり、手紙を出したり、していたようです



それが、

「ヒアシンスハウス(風信子荘)」です



しかしながら、結局、

彼は、

その構想(空想?)の翌年には、

亡くなってしまうため、

この建築もまた、実現することはなく、

わずかなスケッチとして遺されることになってしまいました



それから70年近い歳月が経ち



遺されたスケッチと、

友人たちへの手紙等の資料を元に、

実際の建築として、ついに実現したのが、

現在建っている、

この「ヒアシンスハウス」なのだそうです



片流れ屋根の、

非常にシンプルな木造住宅



ベッドと、

(詩を書くための?)机と本棚、

そして、

外を眺める窓があるだけ



わずか5坪の、本当に小さな小屋です



彼の、大学の卒業論文、

『方法論』の一節



「建築を、

 常に時間のうちに生き、成り、

 また死に辿る運命にある人間の生に根づけられたものとして考える」



そのように、

建築と人間の生とを結びつけて考えてみた時に、

結局のところ、

建築にとって、人間にとって、

本当に大切なものは、

ごくごく僅かな、小さなものだけで十分だった、

ということなのでしょうか

(via k-nakama)

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きっかけは、ある深夜バラエティ番組です。熱海の取材があって、たまたま私が当日ロケの立ち会いをしながら、ディレクターの方に「こんなところもありますよ、あんなところもありますよ」と熱海のスポットを紹介したんです。すると当初その番組は1回だけの放送予定だったのですが、翌月も、翌々月も…と、結果的に半年くらい、熱海の紹介が続いたんです。
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(Source: prettifier, via tobyluigi)

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(Source: lawebloca, via ffftp)

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tokyophotolife:

title:メイド労働組合
model:大空憂(Ui Ozora)
twitter:@ui_san_oo

(via ffftp)

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それから、マスコミは
福島の中学生達へのインタビューで
「こんな事になって、
 君達、東電が憎いでしょう?
 原発なんかなければ良かったって
 思っているでしょう?
 本当の気持ちを言っていいんだよ!」

と、東電批判をさせようとしたとき
一人の女の子がきっぱりと言ったのを
今でも鮮明に覚えている。

「私のお父さんは、
 福島原発で働いていました。
 お父さんが一生懸命に働いてくれたお蔭で
 私たち家族は今まで生活できたんです!
 だから・・・憎いとか・・・
 無ければ良かったとか・・・
 そういう事を言いたくはありません。」
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明雄さんが亡くなった時「鉄腕DASHでの扱いがシンプルだった。みんなショックだったんだろうな…」と言った俺に「こんな数字取れるコンテンツ、24時間テレビで大々的に扱うに決まってるでしょ」と言った妻。残念ながら今日妻が正しいことがわかった

— (via gearmann)

(via petapeta)